私はたびたび交通事故の原因分析の視野を広げるべきだと述べてきたが、今回はそれを理由とともに図示することにした。今回は歩行者と自動車の単純な接触事故に限るものと前提し、ディテールは省く。
 通常、交通事故が起きると警察が調査をする。そこでの調査分析は「歩行者に原因があったか、自動車の運転手に原因があったか」という当事者間の原因・責任問題となる。逆に、当事者以外の原因や責任はほとんど問題視されない。
 これをイラストで表すと図1のようになる(今回は%の数字はとりあえずのもので意味はない)。

siya1

 黄色い光が当たっている部分が視野だ。見えている範囲の中で、事故の原因や責任が問われることになる。
 図1では歩行者の過失・責任が10%、運転手の過失・責任が90%となっているが、裁判ではこの割合が60:40だったり、100:0だったりと、調査結果や両者の主張によってせめぎ合うことになる。
 しかし交通は単に歩行者と運転手だけで成り立つものではない。道路を建設したり、交通する者を支配するルールがあったり、自動車を製造してる会社があったり・・そうした交通者を取り巻く環境までを視野に入れるなら、図2のようになるはずだ(相変わらず%の数字に意味はない)。

siya2

 視野を広く持つと、交通事故の当事者以外の原因・責任も見えてくる。相対的に、当事者の責任は軽くなる気がするが、これは絶対的な全体の値をどう設定するかにもよる。
 というのは図1での交通事故の重大性を全体の100とした場合、100×90%で運転手の責任値は90だ。図1は衝突したけども、双方に大したケガはなかったものとしよう。他方、図2は双方に大きな被害がでて、社会的に大きな影響を与える事故でもあったので重大性を500だと設定すると、500×25%で運転手の責任値は125となる。つまり図2では運転手の割合的には25%にすぎないが、絶対的な責任値では図1よりも図2のほうが大きくなる。
 この「責任値」という概念は今回は深入りしない。問題はほとんどの交通事故が図1で片付けられていることだ。
 図2になると、道路交通法を定める国会や、自動車メーカーや、運転免許制度や、横断歩道や信号機を設置する警察や、道路を建設する国土交通省や自治体行政にも責任が及ぶようになる。そうした責任を回避するために、図1の視野になるよう国民を誘導しているのではないだろうか。
 しばしば交通ルールや交通マナーでは、「一人一人の心掛けが事故を防ぐ」と主張される。つまりそれは「交通事故は当事者の問題である」と図1のモデルに誘導しているのではないだろうか。子供のころから思想教育されており、「外を歩くときは事故に遭わないよう気を付けましょう」と口酸っぱく諭される。一見子供の身を案じているようにも取れるが、その背後には図1モデルへの誘導という思惑があるのではないか。
 何より図1モデルの弊害は、事故を当事者のものとする場合、「今回の」事故については落とし前を付けることができても、今後起こる可能性のある事故、将来の事故の可能性にはほとんど影響を与えないことだ。当事者は「今後は気を付けよう」と思うかもしれないが、それは日本国民1億数千万人の中の数人でしかなく、全体的な事故対策にはならない。
 もし将来に起きうる事故を未然に防ごうと考えるなら、「今回の」事故だけではなく、事故一般に共通する原因・責任・要素を検討せねばならない。そのためには図2モデルが必要であることを指摘するものである(これについてさらに別の図で説明しようとも考えているが、今回はここまでにしておく)。
 そのためには対象と視点との距離が近いよりも距離を取ったほうが視野が広がるだろう。これは物を目で見る際に、対象に近い場所から見るか、遠景を眺めるかの違いと同じである。自分の家族が自動車にはねられたとなれば、事故という対象に近い分、図1のように視野が狭くなることは否めない。加害者憎しの感情である。しかしニュースで見聞きしただけのような、自分との関係性が薄い場合は対象と距離を取って、中立的な視点で全体を眺めることができるのである。